ラオスレポート


カンボジアレポート
Cambodia report


村ですれ違った女の子

吉村誠司のラオスレポート

 

300万トン以上もの空爆に会ったラオス北部、シェンクラン地区を歩いたが、こんなに沢山のエリアの木が無くなるほど、凄まじかったのかと、本当に驚いた。


クラスター爆弾を柱にした小屋


村の所々で見かける爆弾の鉄くず、

直径10mもの爆撃によるクレーターが山肌に複数残り、町のいたるところに巨大な爆弾の門や2mほどのクラスター爆弾を柱にした家を見かける。今年も5月に、農夫が鍬を「ボンビー」と呼ばれる野球の球のような不発弾(クラスター爆弾から、数百個、飛び出してくるもの)を叩いてしまい、付近の2人が即死、3人が重傷を負った事故があった。その鍬を見せてもらったが、鍬の先は粉々にちぎれて曲がり、柄の部分には飛び散った細かい金属片の跡が生々しかった。


「ボンビー爆弾」と被弾した農夫の鍬


実験で不発弾の破片が貫通した
対人地雷用プロテクター

「半径5メートル以内は、確実に死亡。破片は100mは飛んでゆく」と英国NGOのMAGスタッフ、マイケルさんは語った。「これは、対人地雷除去用のバイザーとプロテクターだけど、5mの距離で実験したら、見事に貫通したよ。ボンビーなどの不発弾には役にたたないね」と哀れな姿になったプロテクターを手にとり見せてくれた。


まだ信管が残っている不発弾、旧日本軍が第2次
世界大戦で使用した(中央小型)のも発見された


巨大な爆弾「from USA」と書かれて
いる。あの日を人々は、忘れない。

「ベトナム戦争では、第2次世界大戦でアメリカが使った爆薬以上もの爆薬を、たった1年でこのラオスに空爆したんだ。一個所に44トンも落とされた所もあるんだよ」と空爆された地区を真っ赤にそめた、ラオス全土の地図を見せてくれた。特にシェンクラン地区、そして、ベトナム寄りの南部に向かったほとんどのエリアが、赤くなっていた。


赤い色が、ベトナム戦争時
B52等で爆撃を受けた地区


広い大地を金属探知機でチェックする
「UXO LAO」のスタッフ

標高約1000mのジャール高原から、ホーチミンルートを通り、ラオス共産党の発祥の地、サムヌアに向かった。山沿いの村では、農作業中にボンビーの不発弾で負傷し、今も頭に後遺症が残る「モン族」農夫にであう。「あれは7年前だった。今も時々、頭の傷が痛み、頭痛が残る」と頭の傷痕を2箇所見せながら嘆いていた。失明しなかっただけでも、良かった。


標高の高い村々でも、爆弾の門が残っている


農業国ラオスの風景、子供達もよく歩き、笑い、仕事を手伝う(雨期の6月、サムヌア近郊)

標高1500m前後の峠を10数個所超えて、240キロを8時間の道のりだ。気温は18度から21度。梅雨の日本の方が、暑いだろう。中国雲南省のナンバーのトラックも見かかるようになる。(つづく)

吉村 誠司