昨年2002年は24都府県に「戦争中毒」を広めるため走りまわりました。

続けて、残り23道県をまわります。
各地で会合を主催していただける方、手を挙げてください。少人数でも0Kです!

近くの方は、おむすびとみかんとホカロンを持って駆けつけてください。

バウの携帯:090−3340−8391
メールは :<open-j@peace2001.org>
01月16日(木)
夜遅く名古屋からブーメランを配信して、東名高速で静岡方面に向かう途中であった。
あいも変わらず、体調がすぐれない。おまけに眠気がきたのでSAに立ち寄った。

SAでは、私はいつもお気に入りのマグカップにインスタントのコーヒーを入れ、建物の中にお湯をもらいに行くことにしているのである。

お茶と間違えないようにと思いながら、気をつけてお湯をもらって一口飲んで、ふと振り向くと、テーブル席で大きな口を開いて丼を食べている人物がいた。
そこに居たのは、ミュージシャンの恵樹(keijyu)であった。

「オォ〜!!!」
夜中のこんな場所で会うとは・・・
お互いが驚き、この時建物の中にいた人は、二人の大きな声にさぞ驚いたことであろう。
恵樹は仲間3人でワゴン車に楽器を山積みして、関東にツァーに出かける途中であった。

恵樹とはじめて出会ったのは、数年前の原爆の残り火【こころの分灯】で和歌山の紀三井寺に分灯をさせてもらった時である。
今回の『戦争中毒』のキャンペーンでは、Chanさんたちと一緒に徳島県の世話役もやってくれた人物である。

4人でしばらく会話した。そしてそろそろ出発しようかという雰囲気になったので、私は恵樹に、何か渡すものはないかと考えた。
そうだ、手に入ったばかりのNYタイムズの意見広告が3部あった。

私は、1月6日付けのNYタイムズを彼にプレゼントした。
しばらくして、恵樹も何かを思いついたのであろう、車に『ある物』をとりに行った。
ここで恵樹が私にプレゼントしてくれた『ある物』がすごいのである。

ジョン・レノンの直筆のサインが入った、ジョンの写真だったのである。
それも、ひと目でリバプール以前のハンブルグ時代とわかるセミカラー。

私はそれを手にした瞬間、凍ってしまった。
また、恵樹がこの写真を手に入れた経緯を聞いて、なおも私は驚いたのである。

恵樹はその写真を手に入れたときのことを教えてくれた。
1991年、恵樹はギターをもってハンブルグに行った時、不思議な縁で当時18か19歳の女性と出会い、彼女が母と一緒に暮らす家に行ったのである。
その時にその娘さんから・・・

さて、
ここから先は恵樹に会って、直接、彼から聞いてもらうことにいたしましょう・・・

http://www.geocities.co.jp/Hollywood/7353/

この日から、私は元気になりました。
ビートルズの初期のあたりを聞きながら、車の中で毎日大きな声で歌っています。
サンバイザーのポケットにジョンがいて・・・・・

『宝物』の交換が、いともたやすくできるのが、『仲間』と言うものかもしれない。

『仲間』という『宝物』を感じさせるのも、また『仲間』である。

Osyo Bow Yamada