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神戸元気村への7年間のご支援ありがとう!

ゼロから始まった神戸元気村を一緒に創ってくれた皆さんありがとう!

神戸元気村の誕生から解散までの様々な活動を年表形式でご紹介します

1995年1月17日

マグニチュード7.2の都市直下型地震『阪神淡路大震災』が発生。(午前5時46分)

お も な 被 害 状 況

死者

6,432人  

負傷者 56,000人以上
全半壊家屋 200,000棟以上
焼失家屋 約7,500棟  
避難者 350,000人以上
断水 約1,200,000世帯 
停電 約1,000,000世帯 
ガス停止 約850,000世帯 
電話不通 約66,000回線 
同時多発火災 約290件  

1995年1月19日

神戸市灘区石屋川公園に集まったボランティア達によって、山田和尚(通称:バウさん)を代表として、民間の非営利団体『神戸元気村』が誕生。

『元気鍋』
避難所や公園などで炊き出しを行う。4/3までに展開した炊き出し箇所は60を越え、一日最高7,000食にのぼる。調理を通して、被災した方に生活する意欲を取り戻してもらうきっかけ作りを重視。

『宝探し隊』
行政・業者らによる倒壊家屋の取り壊しが始まり、預金通帳などの貴重品からアルバム・結婚指輪などの大切な思い出の品々の探し出しや、個人宅から会社までの荷物の運び出しをお手伝い。

『入れ歯救援隊』
通常、入れ歯を作るには20日以上必要。ところが愛媛県の専門家の協力で、日本初、たった2時間で入れ歯を作るシステムを導入。東灘区の避難所71ヶ所でのアンケートの結果、震災により入れ歯を無くした方は85名中51名。実に6割もの方が入れ歯を紛失していました。
 調査隊と専門家との連携で、7日間で49名の方の入れ歯を作ることができた。震災後、食べ物が噛めなかった高齢者に笑顔が戻りました。

『ベビー作戦』
赤ちゃんは地震後、温かいミルクや離乳食を口にする事も、体をお湯でふいてもらうこともできない。「赤ちゃんに温かいミルクを!」と、1月28日、乳児家庭を主に調査し、カセットコンロ配布を開始しました。

『チェーン・ソー隊』
柱を一本切れば取り出せる荷物、壁・床を破れば取り出せる荷物のため、チェーン・ソーを使って倒壊家屋の中へ。ログハウスづくりの経験を活かし、8台のチェーン・ソーが大活躍しました。

『ローラー隊』
避難所や公園のテント、あるいは壊れた自宅で生活されている方に直接話を聞き、様々な不都合を改善できるようお手伝い。地域情報や物資の提供、水汲みや話相手など、身障者の家庭を中心に1組平均10〜15家庭を継続して訪問しました。

『あったか畳隊』
避難所となっている学校の教室・体育館の床は、板やタイル、むきだしのコンクリート。畳1枚あるだけで保温性や寝心地の良さは全く違ってきます。全国から運び込まれた畳は1千枚になり、避難所や指定避難所以外の公園にも敷かれました。

・・・その他にも60以上の活動を震災直後に行いました。

1995年3月

ボランティア数ピーク(テント80張、1日約150人が活動)

『引っ越し隊』スタート
避難所から仮設住宅、そして復興住宅への引っ越し。多い日は一日6件、これまでに約3,000件以上の引っ越しを手伝った。一人暮らしの高齢の方にとって引っ越しはとても大きな作業となる。中には入院中に引っ越しのためと無理をして一時退院される方も少なくない。神戸元気村では、ただ荷物を運ぶだけでなく、冷蔵庫の中身を整理したり食器を一つ一つ包むという荷作りから、テレビや洗濯機の配線、時には電気・ガスの開栓手続きも行う。最高年齢75歳、最年少12歳のボランティアが参加した。

1995年5月 神戸元気村写真展『神戸からガイアへ』開催(大阪)

1995年7月

石屋川公園から、公園前のプレハブ内に事務所を移転。

『ベルボックスケアセンター』スタート
被災された方々が避難所から仮設に引越しをし始め、新しいコミュニティーでの生活がスタートしていくなかで、マスコミでは「孤独死」という言葉が頻繁に取り上げられるようになりました。たった一人で亡くなり、何日間も誰にも気づかれず1週間、2週間後に発見されるという方が目立つようになったのです。そんな時、やはり精神的な面で何か出来ないだろうかということで始まったのが、ベルボックスケアセンターです。
 首から下げたペンダント型のスイッチを押す事によって、電話回線と接続されたベルボックス装置本体から自動的に神戸元気村に通報が入り、救急車を手配したり、寂しい時の話し相手になったり、状況に応じて様々に対応します。
 超高齢社会に突入する日本の姿の縮図が、神戸で見えてきます。常時24時間体制でスタッフが交代で事務所に待機、いつどんな発信が入ってきても対応出来る体制で、2002年までの約7年間活動を続けました。

1995年9月 『がんばろう!!神戸』がベルボックスケアセンターサテライトとして加わる。

1995年10月

『カトリック社会活動神戸センター』がベルボックスケアセンターサテライトとして加わる。

『ワールドミュージックフェスティバル』開催。神戸の学生5,000名を招待。

1995年12月 ボランティア数1年間で延べ1万人以上を記録


1996年1月

『但陽信用金庫ボランティアセンター』がベルボックスケアセンターサテライトとして加わる。

『神戸芸術村』開催。

1996年2月 アイヌ民族音楽舞踊『モシリ』公演(神戸)

1996年3月 『3 RICE KOBE(サンライス神戸)』スタート
灘、東灘、中央区、北神の一部の仮設住宅に暮らす、主に独居高齢者・障害者に毎月3kgずつのお米をお届けしました。お米は全て全国の方々からの寄付。現物、お米券、米指定寄付金という形で寄付して下さった方は延べ約14,500人。配った世帯数は約97,300世帯の方々に、291,900kg(145,950,000円相当(500円/kgで換算))のお米をお配りしました。お米券や現金の場合、神戸のお米屋さんで購入するという経済効果もありました。
 ボランティアや自治会が1件ずつ配ったので、月に1度は顔を見ての訪問となり、様々な出会いの機会ともなりました。お米配りボランティアとして全国から多数の参加者があり、延べ参加者は約2万人。
 お米の中には、寄付してくださった方の住所・名前の書かれたメッセージカードがあり、それを機にお礼状から文通へとかわり、全国との交流が続いています。99年7月、サンライス神戸は活動を終えました。


1997年1月6日 ナホトカ号重油流出事故発生
ロシアの重油運搬船「ナホトカ号」が隠岐島沖で船首部を脱落、その際流れ出た重油が福井県の海岸に漂着。
 一報を受け、元気村代表とスタッフが現地に入り、福井県三国町にボランティアセンターを立ち上げた。人海戦術で油を取り除く作業のため全国から集まってきたボランティアを効率的に動かすシステム作りを中心になって行う。震災での経験を活かし、行政と民間が連携を取れるような提案もし、今までになかった行政と民間との関係作りに繋がっていった。海水を使用している水族館のイルカプールの油膜取りを24時間、交代で行うなどの活動もあった。全国から集まったボランティア延べ5万人以上。また、後方支援として、変化する現場の情報をインターネットで迅速に伝えた。これは様々な面で注目され大活躍となり、これからの災害時対応のモデルケースにもなりました。

1997年1月17日 『大震災犠牲者三回忌法要』開催(御影公会堂)

1997年4月12日 対馬重油流出事故支援に、元気村代表とスタッフが対馬へ。回収作業、対策会議出席、インターネットでの情報発信などを行う。

1997年5月29日 『もやしの学校』スタート
仮設住宅や復興住宅に住んでいる高齢者や、病気がちで外に出にくい方々が自ら温泉旅行を企画し、人との出会い、ふれあいの中からもういちど命の炎をもやしてもらおうと発足した。六甲保養荘や不死王閣への温泉旅行を行う。

1997年7月 『キッズクラブ』スタート
震災で大切な人を亡くした悲しみ、仮設住宅での生活、引っ越しによる転校など、子ども達のストレスは絶えることがない。そんな子ども達と富士登山やお米作り体験、カヌーキャンプなど、自然の中でゆっくりと過ごし、少しずつ心の傷を癒し続ける活動です。

1997年12月 おせち料理約200食を仮設住宅ベルボックス利用者へ配る『餅つき大会』開催(神戸元気村事務所前)


1998年1月17日 『神戸元気村』石屋川公園より完全撤退

1998年4月 仮設住宅から復興住宅への引っ越しピーク1日平均4件の引っ越しボランティアを行う。

1998年9月28日 『高知元気村』スタート
集中豪雨のため各地です以外が起きたこの年、あまり報道されなかったが、高知市とその周辺地域の一部が2日間水没した。元気村代表とスタッフが現地入りし、地元の方々の協力によりボランティアセンターを立ち上げ、支援活動を行う。床下まで水が上がったので、泥出し、消毒、畳や衣類などを乾燥させるお手伝いをする。

1998年12月28日 『餅つき大会』開催(神戸元気村事務所前)


1999年3月 1月17日の追悼行事で使用した竹を全国の竹炭職人によって竹炭に焼成し、仮設住宅へ届ける。

1999年6月19日 三遊亭京楽さんの落語会開催(神戸文化ホール・御影公会堂)

1999年9月21日 台湾震災支援活動スタート
台湾中部南投県を中心に広範囲に地震がおきる。神戸元気村では、被害が大きかった埔里に入り台北YMCAと合同でボランティアセンターと『埔里元気村』を立ち上げる。同時に、在日台湾留学生に祖国支援のために現場に入る事を呼びかけ、その留学生のための往復航空券を購入する募金を全国に呼びかけた。その寄付により143名の留学生が、祖国でボランティア活動をすることができた。現場での活動により、初めての体験や出会いを通して、価値観や人生観が変わったという若者も少なくない。
右の写真は、百納精舎という尼僧院がつぶれた為、神戸市東灘区の六甲アイランドで使用されていた仮設住宅を運び込んで建て直した時のもの。
「まさか自分が住んでいた仮設とは・・・」
阪神大震災で被災したのち、台湾でのボランティア活動に参加したメンバーの言葉

1999年10月29日 トルコ・台湾震災チャリティ公演開催(神戸市長田ピフレホール)


2000年1月16日 HAT神戸『いのちの祭り』開催
HAT神戸という復興住宅(全13棟の比較的大きな住宅)において、大道芸人やミュージシャンのパフォーマンス、フリーマーケットなどをおこない、にぎやかな一日となりました。
 復興住宅の住民は高齢の方も多く、日ごろ家と病院の往復のみという生活をされている方も、この日は一日思いっきり笑い、また住宅の方々や地域の方々が知り合いになり交流が生まれるきっかけにもなりました。

2000年1月19日 中国雲南省震災支援のためスタッフが初の外国人として現地入り。インターネットなどで国際支援のための情報発信を行いました。

2000年3月31日 北海道有珠山噴火災害支援活動スタート
噴火直後の避難所では、まず避難住民の方々が何に困っているのか?をたずねることから始めました。神戸のときとは違い、周辺3市の住民は、直接生命に関わる危機感はありませんでしたが、避難所生活においての不便さ、プライバシーの確保もできない生活、病気等に対する配慮のない食事といった状況は神戸と同じでした。交通手段が車しかない長万部町の避難所(7ヶ所)・洞爺湖北側に位置する洞爺村の避難所での活動では、福祉車両を含む2台のワゴン車でフルに働きました。長万部では、キーコーヒー株式会社よりご支援を頂き、無料の喫茶店『げんきぃこぉひぃ』を運営、また衣料や靴、食器、本などを自由に持って帰っていただく事のできる場所を作りました。また、「なんだか楽しいキャラバンがやってきます・元気村竹とんぼ」として餅つき・人形劇・歌の催しで避難所をまわるなど、様々な活動をしました。

2000年4月

『OPEN JAPAN』発足
震災から5年を越える歳月が過ぎ、私たちはたくさんのプロジェクトを展開していく中で、感性という同じアンテナを持ち合わせた多くの『仲間たち』を見つけ出しました。そこには数限りない人たちの、愛すべき姿がありました。そして想いをひとつに言い出しました。
「この星が愛おしくてたまらない」
OPEN JAPANのプロジェクトが動き始めました。

『“こころ”の分燈』スタート
「1945年8月6日 午前8時15分 上空580mで炸裂した熱が 一瞬にして広島の街を炎でつつみました。その直後 福岡県の男性が広島に入り この日の記憶を後世に伝えようと 焼けた街から カイロに火を移して持ち帰りました。55年が過ぎ この時の火が長野県松本市の神宮寺に灯されています。私は この火に "こころ" という名をつけました。
"こころ"を伝える地を求めて 私は歩きます。21世紀へのカウントダウン その夜に日本中の そして世界中の街で "こころ" の火が灯りますように。この火に "こころ" という名をつけました。」(山田和尚)
“こころ”の分燈の旅は長野県松本市浅間温泉神宮寺を出発地に、各地で分燈をしながら、日本列島を無限大(∞)の字にまわりました。

2000年9月

『カンボジア地雷撤去プロジェクト』スタート(OPEN JAPAN)
カンボジアはアンゴラと並び、世界有数の地雷事故発生率の高い国で、年間1700人以上の人々が犠牲になっています。多くのNGOが活動する中、アジアの隣人として、私たちもまず手を差し伸べたいと考えました。震災後から神戸元気村にご支援を下さっている真言宗の寺(プノンペン郊外に小学校を建設した)のご縁もあり、速やかに現地に入る事ができました。イギリスのNGO『ヘイロートラスト』と協力して、地雷撤去プロジェクトを開始しました。

ヂライッテナンナノ!?
http://www.peace2001.org/inpaku/

2000年9月12日 東海豪雨
元気村副代表の吉村は関東からカヌー2艇を四輪駆動車の屋根に載せ、神戸に向けて陸送中、愛知県内にいました。雨量の多さから洪水を予想紙、情報を収集、11日の夜中から行動を開始。名古屋市では、年間降水量の3分の1の雨が2日間で降り、市街地の水位が3メートルに達した所もあり、約193,000世帯37万人以上に避難勧告が出され、全半壊した家屋は300世帯以上にのぼりました。12日午前には多くの地域が1メートル以上浸水した愛知県西枇杷島町に入り、現地の人と共にカヌーを使って、避難が遅れた人々を数百人搬送したり、救援物資を運ぶ活動を始めました。
 一昨年の高知での洪水の支援を行った経験から、畳の需要が多く混乱が起こるのと、電話帳も濡れて駄目になってしまうことがわかっており、近隣の広い地域の畳屋さんの連絡先リストを新聞に折り込みで配布してもらいました。
 また、9月15日に開会したシドニーオリンピックを観てもらおうと全国からTVの提供を呼びかけ、被災地に届ける活動も行いました。個人や団体、報道機関のご支援により800台以上のTVが全国から寄せられ、西枇杷島町、新川町の各自治会を通して地域の方々に手渡されました。
 また、パワーショベルで大量に破砕される冷蔵庫のフロン回収活動も行いました。

2000年10月6日 鳥取県西部地震
午後1時半、鳥取県西部で震度6強の地震発生。発生から5時間後、元気村副代表の吉村とボランティアが現地入り。日野町の高齢化率は33%。屋根に登り、瓦が落ちないようにしたり、屋根にブルーシートを張るなどしながら家々を周った。自らも被災しながら24時間体制で懸命に努力する自治体職員の方々と地元住民の方々が連携し、被害を最小限度にくいとめていた。顔と顔の見える関係が深い絆となって支え合っていた。
日本の高齢化、過疎化の激しい地区での「絆と今」に触れることができた。その場所は、神戸と同じように全国の若い世代が「何か」を感じた場であった。

2000年10月13日 『PEACE WALK』スタート
詳細はhttp://www.otsukimi.net/walk/へ。

2000年12月 「平和の火・こころ」のカウントダウン(OPEN JAPAN)
20世紀最後の満月の日12月11日とその前後の3日間、広島でセレモニーを開催しました。
10日には「平和の火・こころ」が55年ぶりに広島に里帰りし、原爆の火は大勢の人々のこころと手に守られ、長い時を経て、いつくしみの火に変わりました。
11日は、原爆ドームの前で日本中の分燈先から集まった「平和の火・こころ」をひとるに灯す光のセレモニー。
12日はアラスカ先住民のボブ・サムさんを招き、伝えられた神話の中にあるエッセンスから21世紀の未来を学びました。


2001年4月13日〜24日

レインボーフラッグ『ウォーターウォッチ・トラベリング・バンド』実施(OPEN JAPAN)
水たちの変化を観ながら【ウォーターウォッチ】
一枚の木の葉のように水と旅をしながら【トラベリング】
流域に住む人たちと、虹の糸で絆を結ぶ【バンド】船旅
カナダの先住民が、川や海を自由自在に移動するために使った乗り物【カヌー】。カヌーに乗って、荒川を川の中から、水の視線から世界を覗いてみよう。川の中からじっくりと水辺の生態観察ができます。森が海を育てる「水系」の視点がないと、川のことは理解できないからです。川への感謝の気持ちが薄らいでしまったのは、いつの頃からでしょうか。水に流すという言葉があります。現代の生活水準では、川(自然界)は対応できません。人間の豊かさとともに、自然の水が汚れてきています。
残雪登山にて水源を訪ねる。まずは徒歩で歩き始め、川が次第に大きくなりカヌーが可能になったところからは、カヌーでダウンリバーします。秩父郡大滝村〜長瀞(ながとろ)町〜川口市〜足立区〜江藤区〜三番瀬と、荒川の水と現地サポーターとともに旅をしました。水の世界に「ありがとう」とあいさつをしながら。

四万十塾
http://www2.netwave.or.jp/~canoe/

2001年5月 『移動サービス』スタート
震災から6年の月日が経ち、人々は避難所から仮設住宅へ、また終生の場所として復興住宅へと移り住み、町並みはほぼ復興したかに見えます。しかし復興住宅においては、いまだ孤独死がとどまる事なく報道されます。年金生活の一人住まいのお年寄りの方々にとっては、あれから7才も歳を取り、歳と共にお体の自由が思うに任せません。病院通いをしている方、ベルボックス利用者の方々からも、「足腰が痛くて通院や日々の買い物も大変よ。タクシーを使えば高くつくし。」という声をよく耳にするようになりました。
 神戸元気村では地域に根ざす活動として、相互扶助の会員制により、福祉車両(リフトカー)を使って移動困難者(高齢者・障害者の方々)などの通院・買い物などの外出支援を目的として、移動サービスプロジェクトを5月1日より発足させました。

2001年7月 レインボーフラッグ『海にありがとう』実施
7月20日(海の日)に、有明(諌早湾)、小松島(四国・瀬戸内海)などにおいて、「海にありがとう」と書いた手作りの旗を掲げて、海に感謝、海の重要性を再確認するイベントを各地の有志たちによって実施しました。

2001年9月6日 高知県西南部豪雨救援活動スタート
9月6日未明高知県西南部地域を襲った集中豪雨により、河川の氾濫や山腹の崩壊が発生しました。土佐清水市や大月町など6市町村で1533棟が床上・床下浸水、家屋全半壊が13棟、道路の寸断、停電、電話の不通など大きな被害をもたらしました。
 神戸元気村では9月6日より木村トール(四万十塾塾長)が現地入りし、9月8日からは「高知県西部豪雨災害ボランティア活動ベースキャンプ」の一員として、土佐清水市の下川口、片粕、宗呂、貝の川地区で救援活動を開始しました。
 本当に困っている時に、たくさんの人が駆けつけてきてくれることは、復旧の作業がはかどるだけでなく、被災された方々の心の支えにもなっていると実感しました。

2001年9月16日 『グローバルピースキャンペーン』スタート(OPEN JAPAN)http://www.peace2001.org/
9月11日、衝撃的なテロ事件がアメリカで発生しました。世界中が悲しみ、混乱しました。そしてアメリカを筆頭に、世界は新たな世界へ向けて、無気味に動き始めます。そんな中、ベトナム戦争も経験してきた元海兵隊員のグレッグ・ニース氏がブッシュ大統領へ送ったメッセージは、命の尊さやアメリカの威厳を訴えた、素晴らしい内容でした。そして、そのメッセージに共感し、心を動かされた一人の米国人から、きくちゆみさんの元へ、グレッグ氏のメッセージはEメールで転送されます。米国内は怒りと悲しみと混乱の中にありました。平和を求め行動する事が、命の危険につながるという状態でした。平和と真の勇気を求める国境を越えた動きは、Eメールとインターネットを駆使し、『グローバルピースキャンペーン』として、またたく間に世界中に広がりました。
 神戸元気村では、グローバルピースキャンペーンのウェブサイト制作運営や各種窓口業務などを担当。また、多面的に活動しました。


2002年1月17日

神戸元気村解散

7年間ありがとう!
神戸元気村は、2002年1月17日午前5時46分、7年間の活動に終止符を打ち解散することになりました。
 1月13日、神戸元気村の発祥地である御影公会堂に地元神戸と全国から、なつかしい顔の50数名が集まり「峠の会合・いのちの祭り」が行われました。冒頭にバウさんが代表引退を宣言。それを受けて、今後の神戸元気村をどうするか話し合いが行われました。様々な意見が出るなかで、最終的には「震災を通じて偶然出会った私達の絆は消えることはない、神戸元気村の名前は無くても、動く時はそれぞれ繋がってゆける、私達は動いている個人の集まりなんだから・・・」という結論に落ち着きました。

現在進行中の「平和の火・こころ」の分燈活動や地雷撤去プロジェクト、グローバルピースキャンペーンはそのまオープンジャパンとして継続してゆきます。
また、昨年5月にスタートした「神戸元気村」移動サービスは、独立して山本初男氏を中心に活動を続けてゆくことになりました。
今後とも、それぞれの活動にご支援くださいますよう、どうぞよろしくお願いします。

2002年4月1日

神戸元気村ウェブサイト終了

www.response-jp.org のコンテンツの公開を終了。地雷撤去などの、継続して活動するものはオープンジャパンへ引っ越しました。

OPEN JAPAN
open-j@peace2001.org

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