涙もかれたころには、あたりはもうすっかり明るくなっていました。私は立ち上がって御影公会堂に向けてまっすぐに出発しました。
「これからは死んだ人とはかかわらない。生きている人を助けていこう」 そう決意した私は、体中にいのちの力が張り詰め、数時間前とはまるで別人のようになっていました。
公会堂前に着くと、まずは車のなかに積んでいた荷物から炊き出しに必要なもの以外、布団や毛布や衣類などを、すべてそばにいた被災者の人たちに手渡しました。
さて、いよいよ炊き出しの開始です。とはいえ人手は今のところ私一人です。私は公会堂のなかに避難している人たちのところに行って、
「おーい、メシつくるぞ。手伝え!」
と声をかけました。怪諾そうな顔をして、何人かの人たちが集まってきたところをすかさず、
「ハイ、大根切って、そっちはタマネギを頼む」と采配して仕事を手伝ってもらいます。こうしてできあがった第一食目は、けんちん汁のようなもの。野菜がふんだんに入った味噌汁の上に、山盛りの天カスと生卵をガバっとのせる。関西人の性なのでしょうか、私は天カスだけは自分で用意してもってきていて、なぜか天カスを食べると元気がつくと思っていたのです。
まだ行政からの給食もないときです。寒空のなか、お腹をすかせた人たちに温かいけんちん汁は大好評。四〇〇食分もの鍋があっという間に空になってしまいました。
「じゃあ、夕食の準備は四時から始めるからね」
わけがわからないうちに手伝ってしまった人も、もうこのときには経験ある立派なスタッフです。道行く人はみんなスタッフ。これが私流の人集め戦術です。材料と調理用具を渡し、「じゃ、これで適当にお願いね」とまかせていくと、誰か気のきいた人がその場を仕切って、まわりの人たちを巻きこみながら立派な炊き出し部隊になっていきます。
駆けつけたボランティアはもちろん、被災者の人たちも救援を待ってばかりじゃいられません。私の仕事はそうやって人にどんどん仕事を渡していくこと。そして材料の調達です。
さっそく友人たちが届けてくれた卵や水のほかに、食糧、鍋釜、食器類などが続々と到着してきます。物資とともに援軍もやってきます。こんなときだからこそ、使い捨てでゴミを増やすのはやめようと、食器もふつうのお茶碗類を使うことにしました。野菜もできるだけ無農薬のものをお願いしました。そうして何回か炊き出しをやったころ、「バウさん、この鍋、なんか名前つけようや」と、誰かがいいだしました。
「名前、名前かあ…」
私の頭のなかには、あの女の子に向かって叫びつづけた「元気だせー」の言葉がまだ響いていました。
「よっしゃ、元気鍋にしよう!」
こうして生まれた「元気鍋」は、震災翌日の四〇〇食から始まり、その後、三か月にわたって最大一日七〇〇〇食をまかなう大鍋軍団となり、後にはバイキング形式の給食にまで発展しました。考えてもみてください。毎日七〇〇〇食分の食材を集めることがどれほどたいへんなことか。私も今から考えると、いったいどうやって集めて、配っていたのか、まったくもって不思議です。しかし、震災直後というような極限状況下にあったあのときの神戸では、ふだんでは奇跡としか思えないようなことが次から次へと可能になっていったのです。奇跡というのはもちろん、何もないところから食べ物を取りだしたりするようなことではありません。世の中にはそのような能力をもった人もなかにはいるのかもしれませんが、それでは人間は何も学べません。真の意味で人の心を動かすこともできないでしょう。私がいう奇跡は、「人問の、人間による、人問のための奇跡」です。そして、この「人問の、人間による、人問のための奇跡」は、人の心を揺り動かします。
阪神大震災は悲惨な出来事でした。これは動かしがたい事実です。その一方で、全国から物資や義援金が届き、ボランティアが集まり、日本人が一体となって神戸を救おうという気持ちになったのも、紛れもない事実ではないでしょうか。極端にいうと、日本人が初めて愛に目覚めた。このことの意味はものすごく大きいと私は思っています。
さて、あそこに行けば温かい食事ができる、ということで、人の集まるところにはさらに人が集まってきます。元気鍋のまわりに集まったボランティアを中心として一月二十二日、「神戸元気村」が誕生しました。そして私はその代表となり、被災地といういわば修羅場で、実にさまざまな経験を積まされることになったわけです。
非常時こそ個人のカを発揮する最大のチャンス阪神大震災から五年がたち、今では神戸の街もまるで何事もなかったかのようにきれいに化粧直しされています。人々の心のなかにその傷痕を探すことはできても、一見したところ、ここがあの大惨事の舞台となった場所だとはとうてい思えないでしょう。
マグニチュード七・二。死者約六四〇〇人、負傷者四万人以上。マスコミで何度も形容されたとおり、日本の災害史上「未曾有」の、文字どおり日本人が初めて経験する驚異的な規模の大地震でした。震災後、十数時問たって神戸に入った私にも、人々の味わった言い知れぬ恐怖は伝わってきました。ビルや家は壊れ、道路はつぶれ、電柱も自動車もまるで街中がグチャグチャに踏みつぶされたような混乱の状況です。火の手はまだあちこちに残り、いたるところに煙がくすぶっていました。テレビの無機質な映像とは違い、現場はなんともいえない臭気とほこり、また泣き声や叫び声に包まれています。凍るような寒さのなか、行き場をなくしてさまよう人、安否のわからない身内を探しまわる人、ともかくどこかへ逃げ去ろうとする人、どの顔も一様に強ばって、恐れと悲しみと怒りがはりついていました。
しかし、白然に発生した災害ではどこにも怒りのぶつけようがありません。運よく生き残った人たちは、家を失おうが家族を失おうが、とにかくありのままの現実を受け入れ、これからの日々を生きていくしか道は残されていなかったのです。
そんな神戸の人たちを少しでも手助けしようと、日本中から大勢のボランティアが駆けつけました。後に「ボランティア元年」と呼ばれたほど、数多くのボランティアが集まり、のべ人数にして総勢二一〇万人を超えたといいます。拠点をつくったボランティア団体は数知れず、私はそのなかの一つ、神戸元気村の代表として今日まで活動を続けてきたのです。
元気村の本部は御影公会堂の横にある石屋川公園。私が最初に車をとめたところです。
運動会用の大きなテントを張って、受付にしたり、各プロジェクトの基地にしたり、物資の保存用にして使ったのですが、このウナギの寝床のように細長い公園に最高時でテントが六〇張も立ち並んで、私たち自身もびっくりするくらいの規
模になりました。
さて、このテント群を拠点として、以降さまざまなプロジェクトが生まれ、神戸の街中をボランティアたちが駆けまわることになります。私たちが展開したプロジェクトは緊急時、復興時あわせて五〇以上、小さいものまで入れると数え切れない数に上ります。そのなかのいくつかを紹介しますと、たとえば、避難所に暮らす独り暮らしのお年寄りに道後温泉にホームステイしてもらった「道後温泉へ脱出作戦」、各避難所からバスを出し、被災者を銭湯に招待した「お風呂に行こう作戦」、赤ちゃんに温かい、ミルクを飲んでもらおうと、乳幼児のいる家庭にカセットコンロを配布した「ベビー作戦」、避難所間や遠距離地域への物資輸送を引き受けた「路地裏お届け隊」、そのほか青空理容院を開設したり、二時間で入れ歯をつくる歯医者さんに来てもらったりと、思いつくままありとあらゆる活動を展開しました。
被災者には独り暮らしのお年寄りもいれば、生まれたばかりの赤ちゃんもいます。持病を抱えた病人もいれば、結婚式を挙げるはずだったカップル、店がつぶれた経営者と、ともかくいろんな事情の人々がいます。
地震のような非常事態が起きたときに、決断や実行に時間のかかる組織ではまったく役に立ちません。行政はその最たるものでしょう。責任の所在があいまいで、どうしても後手後手の対応にならざるをえなくなる。
「それは私の権限では決められません」
「うちの課の仕事ではありません」
「もう少し検討したあとで、後日、対策を決定します」
こんなことでは、赤ん坊に飲ませるその日のミルクにも事欠いているような人たちが求める必要最低限の願いさえ、かなうべくもないでしょう。平時には行政組織が抱える体質がそれほど問題にならなくても、非常時には致命的にすらなるのです。
では、企業はどうでしょう。企業によって事情は異なりますが、トップが決断さえすれば、組織は動きます。しかし、企業は慈善団体ではありません。営利を追求する組織です。おのずとその活動には制約が加わります。誤解してほしくないのですが、私は行政や企業が非常時にはまったく役に立たないといっているわけではありません。事実、あのとき、行政に携わる人たちも企業で働く人たちも、少しでも被災者の役に立とうと必死だったと思います。ただ、平時には行政と企業とでたいていのことがまかなえても、非常時にはこの両者の手の届かない、深い谷底があるということです。その谷底の狭問を埋めていくこと、できるだけ多くの人々に手が届く、実のある草の根の支援をしていくこと、それが私たちの活動の主眼でした。その狭間の部分は、個人が動くしかない領域なのです。大ざっぱにいって、平時に行政と企業とで九〇パーセントのことがまかなえているとすると、非常時にはせいぜい一〇パーセントくらいでしょう。残りの九〇パーセントは、ボランティア団体、宗教団体、町内会や個人の活躍でまかなわれているのです。
非常時にこそ個人それぞれの力が試される。もっというと、非常時こそ個人の力を最大限に発揮できる大きなチャンスなのです。平時は、社会も硬直化し、一人ひとりの人間の力なんてたかがしれていると誰しも考えがちですが、そんなことはない。一人ひとりの人問には限りない可能性が秘められています。ただ、それに気づいていないだけです。
亡くなった作家の住井すゑさんが、新聞紙上でこう語っているのを読んだことがあります。著作も運動も自分のやってきた活動のテーマは、「すべての境をなくす」ことだったならと。それに倣っていわせてもらえば、元気村や他のボランティア団体の活動のテーマは、「すべての境を超える」ことだったのです。行政や民間の仕事の線引きを超え、一人ひとりが自分の限界を超えて、いのちの力を実感していくことに大きな意味がありました。
震災発生直後の神戸はまさに、一人ひとりのいのちの力が試され、思う存分に発揮できた場所だったのです。
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