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冒険記 #001 山田バウ
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お父さんが行かないで誰が行くの?


とりあえず、埼玉県の寄居町にある自宅に向かって車を走らせました。水上温泉から関越自動車道で一時間ほど、一目散に車を飛ばしながらも、実はいろんなことが頭のなかを去来しました。私はそれまでオゾン層保護活動のために全国を
キャラバンしてまわってい たのですが、その二年問ほど、ほとんど家には帰れていなかったのです。全国キャラバンの最後の締めくくりが水上温泉での合宿で、これでやっと家に帰れる、沢の奥の静かな生活を再び楽しむことができると喜んでいた矢先、いみじくも最終日のその朝に地震が発生したのでした。

背筋にエネルギーが入って、白分が働くべき大きな仕事があると実感はしたものの、やはり気持ちは揺れていました。少し、のんびりしたいというのが本音だったのです。ともかく、いったん帰ってから今後の身の振り方を考えようと、そう決意したころ、寄居の町が見えてきました。

車が家の軒先にすべりこむや否や、待っていましたとばかりに玄関の扉が開かれ、妻と子どもが両手にあふれんばかりの荷物をもってこちらに近づいてきました。私を押しのけ、ワゴン車のドアをすべて開けて、布団や毛布、お米や野菜、お
茶碗や鍋釜やあれやこれやの生活用具を所狭しと積みこんでいきます。あらかじめ物資を用意して、私が戻ってくるのを今か今かと待ち構えていたのでしょう。実に手際よく、テキパキテキパキと積みこみ作業が行われていきます。

私は車の脇に突っ立ったまま、そのようすをあっけにとられて見守っていました。ふと、朝食を取らずに出てきたことを思いだして、「あのー、ごはんないかなあ」と誰ともなしに話しかけてみましたが、耳に入ったのか入らなかったのか、その場の空気では私の存在はまったく無視されているようです。大きなため息を一つついて、「やっぱり、行かんとダメかなあ」と漏らしました。

すると、当時中学三年生だった息子が私のほうを振り向いて、きっぱりといったのです。

「お父さんが行かんで、いったい誰が行くの!」

このひと言が決定打となりました。
そうして私は、ワゴン車いっぱいの大根やじゃがいもや鍋釜とともに、この数年問ちっとも落ち着くことのできなかった寄居の家を出発しました。
「お父さん、今度はどのくらい行ってくるの?」
「うーん、たぶん二週間くらいですむと思うよ」
これがそのとき家族と最後に交わした会話ですが、この日を境に五年間、今に至るまでも神戸に居つづけることになろうとは、家族のみならず私自身も予想だにしないことでした。
さっそく救援物資の調違を開始東名高速自動車道を神戸に向かって走る途中、私はまず、大阪の弁護士さんに電話をし
ました。オゾン層保護活動の際、強力な味方となって動いてくれた人物で、彼白身も熱心な環境保護の活動家です。

「バウさん、神戸はたいへんなことになりましたなあ」

「はい、私も今、神戸に向かっているところです。すみませんが弁護士さん、これから全国の私のネットワークにファクスを送って、物資調達の要請をしてくれませんか。要請の文面はこれからいいます」

「よっしゃ、わかりました」

それから数十分後、さっそく弁護士さんから送られたファクスを目にした人々から私のもとに続々と電話がかかってきました。当時、私は群馬県のある会杜の社長から携帯電話を借りてもっていたのです。電話をくれたのは、北は北海道から南は九州まで、オゾン層保護活動で全国一三〇〇の自治体をまわったときに培ったネットワークの面々です。何かあったらすぐに動いてくれる、信頼できる個人のネツトワークが当時で三〇〇人ほどありました。
私の車のラジオは壊れていたのでその後の神戸の状況は把握できなかったのですが、テレビで刻々と報道される被害の状況を彼らが伝えてきます。もうこのころには「ごはんないかなあ」とつぶやいた気弱なおじさんはどこかにいって、背
筋のエネルギーに従い、いのちの力を出し切って、テキパキと仕事にかかっていました。

「バウさん、○○県の○○です。何を用意したらいいでしょう」
「そうですね、そちらは卵五万個、調達をお願いできますか。物資の集積場所は灘区の御影公会堂にしましょう。あの建物はじょうぶですから地震でももちこたえているでしょう。なんとか私もあそこまでたどり着くようにします」

こんなふうに、根菜類を中心とする野菜や食べ物、プロパンガスから軽トラックや農家の散水機まで、考えられる必要物資のありとあらゆるものを電話で全国の仲間たちに要請し、車のなかはさながら後方支援部隊の司令塔のようなありさ
までした。まず重要なのは食べ物の手配。経験上、私はこのことをよく知っていました。カヌーやヨットでチン(カヌー用語で「沈没」の意味)して、どこかに漂着したにしても、ショックから立ち直った人間が次に考えることはやはり、食べること
だからです。それと長年、 全国でも有名な大阪の飯場・釜ヶ崎で炊き出しを手伝っていたこともあって、大人数の炊き出しの要領には慣れてもいました。
これはあとから知った笑い話なのですが、当時の私の携帯電話にはダイヤルロックという機能が設定されていて、受信はできるが発信はできない。それで私は先方からかかってくる電話に飛びついて依頼するばかりなのでしたが、長い間、
携帯電話は受信専用のものだと思っていたのです。

そんなやりとりを忙しくしながら、いったいどのくらい車を走らせていたのでしょう。あたりは冬の早い夕暮れが終わって、そろそろ夜に差しかかろうとしていました。

大津のインターチェンジを降りて、神戸に向かって一号線を走りました。四三号線に入ろうとしたら、もう道がムチャクチャで、とうてい車が通れる状態ではありませんでした。橋げたは浮き上がり、瓦礫は道路に散乱しています。そんななかを、着の身着のままで焼 けだされたり家をつぶざれた人々が、大挙して大阪に向かってぞろぞろと歩いています。ときおりけが人や病人を乗せた車とバイクが人波をかきわけるようにして過ぎていきます。そのライトの光がピュンピュンと、暗がりを歩く人の顔を射るように照らしていくのですが、土ぼこりで汚れ、傷つき、まるで戦時中の空襲にあった人々のようです。救急車とパトカーのサイレン、ヘリコプターのプロペラの音だけが反響するなかで、私は初めて地震のもたらした凄惨さを肌で感じました。

どうにか通れそうな道を縫うようにして、私は車を走らせました。車窓の光景に圧倒されながらも、とりあえず、なんとか御影公会堂まで行こう。私の考えていることはそれだけでした。ところがここがいったい何区なのか何町なのか、夜ということもあってまったく判別がつきません。町をもっとよく見ようと身を乗りだしたそのとき、顔の脇から大根のしっぽが突き出ているのに気がつきました。家を出る前、家族がワゴン車いっぱいに積みこんだ荷物があふれかえって、運転席の私のところまで押し寄せてきていたわけです。

ここらで休憩するか、とドアを開けて車を降りました。

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